歴史

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    1: みつを ★ 2019/02/03(日) 07:30:23.48 ID:y3krdmlv9
    https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190203/k10011801621000.html?utm_int=news-new_contents_list-items_002

    エジプトの遺跡で40体以上のミイラ見つかる
    2019年2月3日 6時57分

    エジプト中部にある遺跡で、およそ2000年前の40体以上のミイラが見つかりました。その多くは中流階級の人々のものとみられ、当時の市民の生活などがわかるのではないかと期待されています。

    エジプトの考古省は、2日、中部の街ミニヤ郊外で会見を開き、地元の大学と共同で行った発掘調査の結果、地下9メートルにある墓から、40体を超えるミイラが見つかったと発表しました。

    いずれもおよそ2000年前のものとみられ、このうち12体は子どもだということです。

    ミイラは、赤や青などの染料を使って顔を描いた古代の紙「パピルス」が巻きつけられるなど、比較的簡易な装飾が施されていることから、中流階級の人たちのものだとみられるということです。

    このほか墓からは、食べ物が入っていたとみられるつぼや墓を悪魔から守るなど宗教的な意味を持つともされる動物のジャッカルのミイラが見つかっていて、当時の市民の生活や宗教的な慣習などがわかるのではないかと期待されています。

    エジプトのアナニ考古相は「発掘はまだ始まったばかりだ。今後のさらなる発見を期待したい」と話しています。

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    元スレ:「http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1549001318/
    1: 記憶たどり。 ★ 2019/02/01(金) 15:08:38.38 ID:KKdui0m+9
    https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190131-00010001-nknatiogeo-sctch

    青いガラス盃など副葬品も、スロベニアの首都で見つかった1700年前の遺跡

    2017年8月、リュブリャナの繁華街にあるゴスポスベツカ通りで、大規模な建設工事が始まった。
    リュブリャナは、イタリアの東隣の国スロベニアの首都で、歴史ある町だ。
    スロベニアの考古学者たちが調査に加わったが、彼らの期待を上回っていたのは、
    初期のキリスト教コミュニティの意外な姿が明らかになったことだ。
    そこには一人の重要な女性が眠っており、人々は死後もその女性の近くに身を置きたいと考えたようだ。
    その女性の正体はいまも謎のベールに包まれている。

    リュブリャナの始まりは、今から2000年ほど前に作られたエモナというローマの入植地。
    イタリア北部に土地が不足していたことから、数千人の入植者や、ローマ帝国の設立に貢献した
    退役兵たちがエモナにやってきた。これまでの周囲の発掘結果から、ゴスポスベツカ通りでも、
    ローマ時代あるいはそれ以前の墓地が見つかるのではないかと考えられていた。

    スロベニアの考古学者アンドレイ・ガスパリ氏によると、発掘されたのは、ローマ時代後期の複合墓地だった。
    簡素な墓から石棺(サルコファガス)が収められた霊廟まで、合計350基以上のさまざまな墓がある。
    さらに、墓地の中心には埋葬室があり、重要と思われる一人の女性が埋葬されていた。こ
    のあたりのキリスト教コミュニティは、紀元300年代初めにディオクレティアヌス帝による大弾圧が終わってから
    栄え始め、5世紀にエモナがフン族によって破壊されて終わりを告げた。

    謎の女性とともに眠っていた盃

    ゴスポスベツカ通りから出土した品のうち、もっとも目を引くのは、女性の隣に置かれていた青いガラス製の器だ。
    約1700年前に作られたもので、ブドウの実や葉やつるの模様とともに、「長寿のため、永遠の命のために飲み干せ!」
    というギリシャ語が刻まれている。

    この美しい盃は埋葬の儀式だけでなく、日常生活でも使われていたかもしれない。組成を化学的に解析したところ、
    地中海東部で作られたもののようだ。ブドウはキリスト教の聖餐とも関連があるが、もともとはワインと陶酔を司る神
    ディオニュソスにつながる。

    考古学者たちは、この女性の墓が拡張された経緯にも注目している。女性が埋葬されてからおそらく10年以内に、
    正方形だった埋葬室が壊され、墓を囲うようにしてさらに大きな祠(9×12メートルほど)が作られたようだ。
    そして、エモナのキリスト教コミュニティは、この祠を中心に「アド・サンクトス」と呼ばれるやり方で埋葬し始めた。
    聖人の墓や聖遺物に寄り添うように死者を埋葬していく方式だ。

    埋葬室に祀られていた謎の女性はいったい何者なのだろう。考古学者たちが正しいとすれば、
    女性はこの墓地に初めて埋葬された人物で、この共同墓地にとって重要な役割を果たしていた。
    おそらくローマ時代のエモナにおいて有力な人物だったのだろう。しかし、社会的地位、宗教的立場、出生地などは、
    今のところ推測するしかない。今後、遺体の分析が行われる予定で、そこから手がかりを得られるかもしれないと期待されている。
    現在、ゴスポスベツカ通りから見つかった貴重な出土品のほとんどは、リュブリャナ市立博物館で展示されている。


    スロベニアの首都リュブリャナの繁華街にあるゴスポスベツカ通り。
    リュブリャナの前身となったローマの入植地エモナの遺跡が発掘された。
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    【【歴史】謎の女性を囲む350の墓、古代ローマ都市で出土 】の続きを読む

    元スレ:「http://egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1548930986/
    1: しじみ ★ 2019/01/31(木) 19:36:26.04 ID:CAP_USER
    【1月31日 AFP】20万年前にユーラシア大陸の森林を歩き回っていた希少種の初期人類デニソワ(Denisova)人が、道具や装身具を製作していた可能性があることが、30日に発表された最新の研究結果で分かった。

     デニソワ人の存在は、2010年にロシア・シベリア(Siberia)南部にある洞穴の科学調査で採集された女児の指の骨が、分析によって、それまで同定されていなかった人類種に属することが判明したことから確認された。デニソワ人は初期人類ネアンデルタール(Neanderthal)人と近縁関係にあることも分かっている。

     デニソワ人はこれまで、デニソワ洞穴(Denisova Cave)でしか発見されていない。このため、よく知られている近縁種のネアンデルタール人に比べ、分かっていることがはるかに少ない。ネアンデルタール人は集団で高度な戦略を練って狩りをしたり、火を起こしたり、道具や装身具を作ったりしていた。

     英科学誌ネイチャー(Nature)に発表された2件の論文で二つの国際研究チームは、デニソワ人が洞穴に居住していた年代は20万年前までさかのぼると主張している。

     論文の執筆者で、英オックスフォード大学(University of Oxford)放射性炭素加速器部門(Radiocarbon Accelerator Unit)を統括するトム・ハイアム(Tom Higham)氏は、AFPの取材に「試料となるヒトの骨自体が極めて小さいことが難題だった。最大のものでも2センチの大きさで、これで年代を決定するのはかなり難しい。なぜなら試料の骨はすべて、放射性炭素年代測定法のちょうど適用限界かそれに及ばない範囲に入るからだ」と語った。

     放射性炭素同位体の半減期を用いて有機物の年代を明らかにする炭素年代測定法は、最高でおおよそ5万年前の検査サンプルに対してしか信頼できる測定値が得られない。

     ハイアム氏と研究チームは、過去の調査では見つかっていなかった骨の断片をいくつか発掘し、その一つからDNAサンプルを採取することに成功した。

     研究チームは次に、入手可能な炭素データに加え、堆積物の年代測定、ゲノム(全遺伝情報)の変異率、考古学的情報などで構成される数理モデルを使用し、デニソワ人がその名前の由来となった住居に住んでいた時期を、かなりの確信を持って特定した。

    「デニソワ人が洞穴から姿を消したのは、20万年前から恐らく約5万年以上前までとみられる」と、ハイアム氏は述べた。

    ■装身具や道具

     研究チームはヒトの骨の他、首飾りとして使われていた可能性のある穴の開いた動物の歯や、骨で作った道具、ダチョウの卵の殻でできたビーズ、石を加工した腕輪などを発見した。こうした遺物はみな、かつては現生人類にのみ関連付けられていたが、最近になってネアンデルタール人との関連が指摘されている。

     遺物が見つかった洞穴の周辺には、他のホミニン(ヒト族、類人猿を除く現生種と絶滅種の人類を表す用語)の骨は存在しないため、デニソワ人が作ったとするのが「最も説得力のある説明」だと、ハイアム氏は指摘する。

    「最も古い(遺物の)年代は4万9000年前にさかのぼる。ユーラシア大陸全体とまでは言えないが、ユーラシア大陸北部における、これまでに得られているこの種の活動を示す最古の証拠となる」とハイアム氏は説明する。

     研究の裏付けが得られれば、人類の祖先がどのようにして生き延び、社会化したかということに関する従来の考えが、今回の結果によって一変する可能性がある。

     デニソワ洞穴は、最近では2018年8月、ネアンデルタール人の母親とデニソワ人の父親を持つ「デニー(Denny)」が発見されたことで大きく取り上げられた。デニーは、これら初期人類の間で異種交配が行われていた初の証拠となった。

     今回の研究チームによると、デニーが現れたのは10万年前頃と考えられる。これは、ネアンデルタール人とデニソワ人が、約4万年前に絶滅するまで数万年の間、異種交配を行っていた可能性があることを意味するという。(c)AFP/Patrick GALEY

    ■デニソワ人の骨片。オックスフォード大学提供(2015年6月14日撮影、2018年8月22日入手、資料写真)。
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    http://www.afpbb.com/articles/-/3209052

    2: ニュースソース検討中@自治議論スレ 2019/01/31(木) 19:45:52.64 ID:XE8SBThQ
    初期じゃないでしょ?


    3: ニュースソース検討中@自治議論スレ 2019/01/31(木) 19:47:41.88 ID:V2VyOg9+
    というかシベリアにダチョウがいたのか

    元スレ:「http://egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1548851640/
    1: しじみ ★ 2019/01/30(水) 21:34:00.68 ID:CAP_USER
    ■脱EUと移民問題で揺れる英国、大陸とのつながり色濃く、英博物館

    昨年、褐色の肌に青い瞳を持った1万年前のイギリス人「チェダーマン」の顔が復元され、世界的に話題となった。これをきっかけに、ブレグジットと移民問題で揺れる英国で、真の「先住民」は誰なのかという論争に火が付いた。

     そしてこのたび、新たに7人の「地元民」の顔が公開された。主にイングランド南部の海岸で発見された頭骨を基に、法医学の技術を使って復元したもので、なかには4万年前のネアンデルタール人も含まれている。それらは、この地域の歴史がこれまで考えられていたよりもはるかに複雑であったことを物語っている。7人の顔は、1月26日から英国ブライトン博物館・美術館で展示されている。

     博物館のコレクション管理責任者リチャード・ル・ソー氏の説明によると、7人のうち5人は、サセックス州南東部の町ブライトン周辺で発掘された紛れもない「地元民」であるという。最も新しい人物は、死亡時の年齢が40代の男性で、1980年代にビルの建設現場で発見された。ローマ人によるブリタニアの支配が終わり、大陸からゲルマン人が侵入した6世紀のアングロ・サクソン時代に生きていた人物だ。なお、イングランドという名称はこのアングロという言葉に由来する。

     残りは最も古い2人で、ネアンデルタール人女性と初期の現生人類の男性だ。実は、欧州のほかの地域で発見された頭骨を使って復元したものだが、約4万年前のブライトンにはネアンデルタール人と現生人類がともに生きていたことが知られているため、今回の7人に含まれた。

    ■大陸と陸続きだった時期も

     14カ月かけて古代のイギリス人の顔を復元したのは、考古学者で彫刻家のオスカー・二ルソン氏である。他に、1200年前のペルーの貴婦人や9000年前のギリシャに住んでいた10代少女の顔の復元を手がけたこともある。二ルソン氏はまず頭骨をスキャンし、3Dプリンターで正確な立体模型をプリントする。それに、その人物の出身地、性別、死亡時の推定年齢といった情報から、骨の構造や肉の厚みを決め、手で肉付けする。

     最近の古代ヨーロッパ人のゲノム解析により、肌、頭髪、瞳の色はある程度正確に推測できるようになった。例えば、7人の1人である5600年前の「ホワイトホークウーマン」が属していた新石器時代の人々は、1万年前のチェダーマンなどよりも肌の色が薄く、瞳の色が濃い。一方、後にユーラシア大陸からやって来た4400年前の「ディッチリングロードマン」は、肌と瞳の色がもっと薄かった。彼は、その頃に大陸からブリテン島に押し寄せ始めたビーカー人と呼ばれる農民の集団に属していた。

    英国は現在、欧州連合離脱交渉の最終段階に入ろうとしている。この展示をきっかけに、ブライトンの先住民やユーラシア大陸との文化的つながりについて対話が生まれることを、ル・ソー氏は期待している。

    「私たちがどれだけ大陸と強く結びついてきたか、各時代における民族の大移動がどれだけ私たちの歴史に影響を与えてきたかを伝えられればと思っています」。ル・ソー氏はまた、ブリテン島がユーラシア大陸と過去数度にわたって陸続きだったことがあり、わずか8000年前にもつながっていたと付け加えた。

    続きはソースで

    ■5600年前に今の英国のサセックス州ブライトンに埋葬された女性「ホワイトホークウーマン」。小柄でやせた女性で、25歳に達する前に出産が原因で死亡したとみられている。
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    ■2300年前の「スロンクヒルマン」(左)と1500年前の「スタッフォードロードマン」(右)。
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    ナショナルジオグラフィック日本版サイト
    https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/19/013000070/

    【【人類学】激変した「イギリス人」の顔を一挙復元、4万年分 英博物館[01/30] 】の続きを読む

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    元スレ:http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1548637469/
    1: 記憶たどり。 ★ 2019/01/28(月) 10:04:29.30 ID:ueSHCkS+9
    https://www.yomiuri.co.jp/fukayomi/ichiran/20190125-OYT8T50003.html

    領土交渉のカギ「第二次大戦の結果」とは

    北方領土をめぐる日本とロシアの交渉から目が離せない日々が続いている。安倍首相とプーチン大統領の首脳会談は1月22日の会談で通算25回にのぼり、
    早ければ6月に大筋合意を目指すというが、領土交渉の先行きは厳しいとの指摘も多い。

    ロシア側はここにきて強硬な姿勢を示している。ラブロフ外相は平和条約締結の前提のひとつに「日本が第二次世界大戦の結果を受け入れること」をあげた。
    旧ソ連が北方4島を獲得し、領土であることをまず認めよ、ということだろう。

    だが、ソ連の最高指導者だったヨシフ・スターリン(1878~1953)が最初に目指した「第二次世界大戦の結果」は、北方4島ではなく、北海道の北半分だった。
    南樺太と千島列島でソ連軍と対峙たいじした第5方面軍司令官、樋口季一郎(1888~1970)中将の決断がなければ、スターリンの北海道占領の野望は
    実現していた可能性が高い。

    「断乎反撃、撃滅すべし」樋口司令官の決断

    1945年(昭和20年)8月9日未明、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄して満州に侵攻する。11日には南樺太でもソ連軍が日本領への攻撃を始めた。
    スターリンはこの半年前に開かれたヤルタ会談でフランクリン・ルーズベルト米大統領(1882~1945)、チャーチル英首相(1874~1965)と秘密協定を結び、
    日本に参戦する見返りとして南樺太とすべての千島列島を得る了承を得ていた。

    14日、日本はポツダム宣言の受諾を決め、15日に終戦の詔書が出される。第5方面軍司令官だった樋口は16日、心を平静にし、軽挙妄動を慎んで
    規律を乱さぬよう訓示している。大本営は同じ日、全部隊に「やむを得ない自衛行動を除き、戦闘を中止せよ。18日午後4時までに徹底するように」との命令を出した。

    ところが、南樺太のソ連軍は戦いをやめず、さらに18日には千島列島でも占領作戦を開始する。千島列島北端の占守島しゅむしゅとうに上陸し、
    戦車の砲門を外すなどして武装解除を進めていた日本軍を攻撃したのだ。

    大本営の命令に従えば、18日の午後4時には完全に戦闘をやめなければならない。だが、それまでの自衛戦争は許されていた。樋口は大本営にはお伺いを立てず、
    独断で島を守っていた第91師団の堤不夾貴師団長に「断乎反撃に転じ、ソ連軍を撃滅すべし」と命じた。

    樋口の『遺稿集』には、「すでに終戦の詔書が下り、私(樋口)には完全なる統帥権が無かった。しかし、自衛権の発動に関し堤師団長に要求したところ、彼等は勇敢にこの自衛戦闘を闘った」
    との記述がある。濃霧で上陸に手間取っていたソ連軍を、砲火を波打ち際に集中してたたく作戦が奏功して、ソ連軍は大損害を被った。

    だが、日本軍が戦闘停止期限の午後4時に攻撃の手を緩めたことで、ソ連軍は形勢を挽回する。現地の日本軍は18日午後4時でソ連側も戦いをやめると
    思っていたが、大本営は戦闘停止について連合国軍と何ら合意しておらず、停戦期限は「命令を出してから2日もあれば全部隊に伝わるだろう」というだけのものだった。

    双方の記録では、日本軍が600~1000人、ソ連軍が1567~3000人の死傷者を出す激戦が続いた。日本軍は終始優勢を保つが、最後は停戦協定によって武装解除に応じる。
    降伏した日本兵は全員、シベリアに抑留され、多くの人が命を落とした。樋口は「勝者が敗者に武装解除されたのは何とも残念」と無念の思いを吐露している。

    北海道をめぐる米ソの駆け引き

    ソ連は1940年(昭和15年)の日ソ中立条約の締結交渉で、すでに樺太と千島列島を「回復すべき失地」と主張していたという(中山隆志『一九四五年夏 最後の日ソ戦』)。
    だが、8月15日の時点でヤルタ協定で得た領土の占領は終わっていなかった。

    スターリンは是が非でも、日本が降伏文書に署名する前に占領を終え、既成事実にしたかった。18日、マッカーサー連合国軍最高司令官(1880~1964)は日本の要請を受けて
    ソ連軍に戦闘中止を求めるが、スターリンの命令を受けていたソ連軍は要請を無視した。樋口はスターリンの野望を見抜き、独断で自衛戦争を指示したのだろう。

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